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合気道の書籍紹介(14) 合気ニュース35・36号
合気ニュース35・36号は米川成美先生のインタビューが綴られます。
米川成美(しげみ)先生です。なるみ先生ではございません。
米川先生はあの有名な動画、現存する開祖の一番古いフィルム(おそらく)で受けを務めておられる内のお一方です。
VHS及びDVDの「植芝盛平と合気道」(第一巻)に収録されている
開祖51歳 記録映画『武道』 (大阪朝日新聞社制作 久琢磨監督)で登場されています。
そう聞くと、なんとなく馴染み深く思われる方もおられるのではないでしょうか。
<映画 武道>
35号の発行が昭和55年1月。私は産まれたばかりの頃です。
合気ニュース冒頭にはいつも編集長プラニン先生のコラムが掲載されていますが、
この号の表題が「“不確実な時代”における合気道」とされています。
なんとも意味深な表題であります。
表紙の写真は斎藤先生ご提供らしいです。さすが斎藤先生ですね。
<合気ニュース35号 表紙>
で、下記の有名な写真ですが
「八方分散」というらしいです。体捌きの事かな?名称が付いている事を初めて知りました。
大東流代理教授の頃の開祖の書に添付されている、というイメージでしたが
こちらは米川先生のご提供。昭和6年頃の若松道場にて、との事です。
昭和6年ですから、おそらくもう皇武館時代ですね。
<八方分散1>
<八方分散2>
そして田中万川先生や藤平光一先生よりも前に入門されている様です。
いわゆる戦前のお弟子さんの中で中期に入門、との事です。
先ほど、皇武館と書きましたが、米川先生の言によると、当時は「植芝塾」とふたつの名で通っていた様です。
そして翁先生との事色々書かれています。
道場で弟子が寝ていたら、開祖が飛んできて木刀一閃、神前のお供え物を食べているネズミを叩き切ったという
有名な逸話がありますが(たしか剛三先生談)、米川先生も同じような事を述懐しておられます。
(夜、寝ている時)「何番目の障子に虫が這ってるからとれ」といった事が度々。
開祖の神懸かりのエピソードはお弟子さん方々が数々語られていますが、
真偽、というと訝しんでいる様に思われる危惧がありますが、それにしても
前述の察知であったり、切り株を根っこからひっくり返したり、米俵一俵を真槍で突いて右から左に移し替えたり。
昔の米俵一俵60㎏ですよ。
私、現代の米袋一袋(いったい)を抱えるのがどっこいしょでようやくなのですが・・・
また、開祖はいつでも隙がなかった様です。
米川先生が電話をしている所、開祖に背後から肩を叩かれ
「隙があるぞ。気をつけろ」との事だったそうです。
時代ということもありましょうが、やはりそういった常に研ぎ澄まされた感覚が成せる業なのかもしれませんね。
私、寝ていてゴキブリが歩いていても一切気が付かない自信があります。
このインタビューは
「植芝先生の当時の演武会の姿勢はどういうものだったのでしょうか。」という質問で締めくくられます。
以下、米川先生のお答えを引用します。
「もちろんデモンストレーションのこととして、ひとつあげられますね。
あの当時は合気武道というのはあまり知られていなかったので。したがって、合気武道はかくの如ときものである
というアピールのものであり、またこれは、単なる武道だけなのではなく、武道を通して人間の修練にあたり、
さらに人間形成の上にこの道はよいものだというような、そういう教育的なものも多分に演武の中に含まれていると
思いますね。確かに当時は柔道が風靡していましたからね。ですから単に武道を披露し武道愛好家を募るということばかりでなく
人間を大成してほしいんだという願望が合気武道の演武にあったと思うんです。
またその当時、柔道以外の武道が、いわゆる「古武道」だと見られていたのも事実ですし
重点も置かれていませんでした。したがって当然合気武道もそのたぐいだと思われていたのも仕方ないこと
だったのでしょうね。決して合気武道は、そういう古武道などというものではないと、先生は努力されていたのだと
私は考えますけれども。
実際、合気武道を修練することは非常に難しいことですねよ。あの加納先生が試合というものを考えられたのは
試合をすることによって、人間の優越感を満足させることができるからであろうし、そういう次元の低い気持ちを
満足させるものが試合の中にあると思うんです。
合気武道は、そういう試合形式をとらないということで、そこに次元の高いものがあると思いますね。」
令和8年 4月10日